「人の準備と神の準備」  07.01.09
                  ルカ22:1〜13

 私たちは、天地の造り主、全能の父なる神さまを信じています。
 それゆえ、どんなに人が力を振るっているように見えたとしても、
それが世界を覆っているのではなく、神さまがこの世を覆い、
治めておられることを信じます。この世に対して決定力を持つのは、
人でなく、神さまです。

 二つの場面があります。第一の場面(1〜6節)には、イエスさまへの
殺意と裏切りが満ちています。人間の罪が満ちている場面です。
 しかし、それだけではなく、第二の場面(7〜13節)があります。
 そこは、イエスさまが言われた通りに、御心のままに事が進んでいる
場面です。何人かの人物が登場し、それぞれに食事の準備に関わり
ますが、そこで主導権をもっているのはイエスさまです。
 この食事は、主の十字架による救いと結びついた食事でした。
 イエスさまがそのような食事の席を用意させるのは、十字架による
救いが着々と進んでいるからにほかなりません。
 聖書には、このような二つの場面があります。それによって、世には、
人間の罪の場面だけでなく、救いが着々と進められている場面もある
ことを知らされます。そこに、大きな慰めと希望があります。

 二つの場面でそれぞれに準備したことが、どちらも実現します。
 イエスさまは十字架で死なれましたから、悪意が実現したかのように
見えます。しかし、人間が悪意の中で準備してきたことを突き破るかの
ように、救いが実現したのです。十字架の死によって、人の罪の赦しが
実現し、神の民とされる道が開かれました。最終的に実現するのは、
人の準備したことではなく、神さまの準備されたことです。この世を満たす
のは、神さまの御心であり、人を救おうとされる神さまの大きなご愛です。

 第一の場面の人は、イエスさまよりも自分の気持ちを優先させます。
 第二の場面の人は、自分の理解や常識よりもイエスさまのことを
優先させています。
 何を重んじるかで、自分の身を置く場面が変わります。